中国語を学んでるんだけど、「有钱有闲有健康」という言葉を学んだ。直訳すると、「金がある、暇がある、健康である」という意味なんだけど、金と健康の間に”暇”があるのって、超ゆたかでゆとりがあって最高だなと思った。
潰しちゃうのが暇で、暇は潰されるもんだけれど、暇があるからこそ潰すことができるというか、暇っていうのは潰しがいがあるっていうか。
「どう俺たちは暇を潰すのか」ということは私たちにとってとても大切な問いなんじゃないでしょうか。目に見えて有用な、例えば仕事に生かせる資格の勉強をするとか、語学の勉強をするとか。そういうのも最高だけど、私は有用性のない(かどうかわからない)ことで暇を潰していきたいなと思う。
それは受動的なものよりか、もっと能動的なことをしたい。余計なことをしていきたい。で、「余計なことで忙しい」っていう文學界でやらせてもらってる連載と繋がるんだけれど、それで書いてるみたいな「メルカリで知らん子の絵を買う」「嫌いな食材で持てなされる」っていう余計なことをたくさんやっていきたい。
プリンストン高等研究所を作ったエイブラハム・フレクスナーが彼のエッセーである「役に立たない科学が役に立つ」で「有用性とか関係なく、人間の精神を解放しましょう」って言っていて、それにけっこう影響を受けている。
もっとも、わたしは、研究室でおこなわれるすべてのことが、いずれ思いがけない形で実用化されるとか、最終的に実用化されることがその正当性の証だとか、言っているわけではない。そうではなく、「有用性」という言葉を捨てて、人間の精神を解放せよ、と主張しているのだ。
「役に立たない科学が役に立つ」エイブラハム・フレクスナー
効率とか生産性などがメジャーにいる中で、有用性という言葉を捨てよ! というのはけっこうむずかしい。でも、きっと自分の精神のままに好きなことを学んで、ひらめき、作ることでおもしろいものがたくさんできあがるんじゃないかなと思ったりする。だから私は今日もなんにもならない散文をここに書くし、KPOPアイドルのダンスを覚えようと必死になったりしている。